富士スピードウェイイベント

富士スピードウェイ50周年記念イベントゲストドライバーまとめ

富士スピードウェイ50周年を記念したイベントラストを飾る富士ワンダーランドフェスに来場予定のドライバーと簡単なプロフィールを紹介します。あの往年のレジェンドなゲストドライバーたちにあえるチャンスです。
この記事では富士スピードウェイ50周年記念イベントゲストドライバーについて纏めます。

 

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富士スピードウェイ50周年記念イベントゲストドライバーまとめ

 

富士スピードウェイ50周年記念イベントゲストドライバーまとめ

富士スピードウェイ50周年イベントというだけあって、往年のレーシングドライバーが多数ゲストドライバーとして登場します。

各ドライバーはトークショーや解説、ドライバーとして歴史的なマシンをドライブしてくれます。

結構な人たちは現在も監督としてサーキットにいる人たちですがこういったイベントでしか見ることもないような方達もゲストとして来場しています。

富士ワンダーランドフェスではパドックエリアは自由に入れるので運が良ければパドック裏で直接会ってサインをもらうチャンスもあるかもしれませんね。

こうして見てみると、近藤真彦の名前はないですね。こういうイベントには大抵出てくるんですけど。

 

長谷見昌弘

1964年四輪レーシングドライバーとなり日産・大森ワークスに所属、デビュー戦で優勝。
1976年のF1世界選手権・イン・ジャパンにコジマからスポット参戦。
1977年にはマカオグランプリに参戦を開始。1980年には当時日本人史上最高位となる2位表彰台
1992年のデイトナ24時間レースにおいて、林義正と水野和敏が率いる日産ワークスで、星野一義、鈴木利男と共に日本人ドライバーによる日本車初優勝を成し遂げる。
現在スーパーGT 300クラスNDDPレーシングの監督

 

高橋国光

1958年、2輪の第1回全日本クラブマンレース・ジュニア(350cc)クラスにBSAゴールドスターで出場し、セニア(350cc超)クラスを上回る平均速度で優勝。10代の若さで日本を代表するライダーの一人となる。
これをきっかけにホンダのワークスライダーとなり、1960年からロードレース世界選手権(世界GP)に出場。
1961年には西ドイツGP(当時)の250ccクラスで、日本人として初めての世界GPレース優勝を遂げる。
1964年4輪レースにデビューしスカイラインGT-R(C10型、愛称「箱スカ」)が50勝の記録を達成した時のドライバーでもある。
1978年に鈴鹿で開催されたJAFグランプリ(F2)では、F1ドライバーのリカルド・パトレーゼらと競り合った末に優勝。
1983年以降は全日本耐久選手権に活動の場を移し、1985年から1987年まで、ポルシェ・956および962Cで選手権3連覇を果たし、1989年では4度目の年間タイトルを49歳にして獲得している。
チーム国光を立ち上げ、全日本ツーリングカー選手権(JTC)では土屋圭市と組みスカイラインGT-R(R32型)で活躍し、1勝している。
1994年より、ル・マン24時間レースに自チームを率い土屋圭市、飯田章とホンダ・NSXでGT2クラスに参戦、1995年にはついにクラス優勝を飾る。
1999年にレーシングドライバーとしての引退
現在スーパーGT 500クラスチーム国光の監督

 

寺田陽次郎

1974年のル・マン24時間レースでル・マン初参戦。1979年にはRX-7で参戦した。その後1981年から2008年まで連続してル・マンに挑戦しており、1983年・1988年・1990年・1996年にはクラス優勝を飾っている。現在まで29回参加しており現役最多出場。
2003年には長年ル・マン24時間に参戦してきた功績を認められ、ル・マン24時間の主催者であるフランス西部自動車クラブ(ACO)の理事に迎えられたほか、2006年には日本人初のスピリット オブ ルマンを受賞。

 

影山正彦

1984年に富士フレッシュマンレースでレースデビュー。
1990年より全日本F3000選手権に参戦。1991年からは全日本ツーリングカー選手権(グループA)にも参戦を開始する。1993年には、この年が最後となったグループAで星野一義とコンビを組み、日産・スカイラインGT-Rでシリーズチャンピオンを獲得。
全日本GT選手権に参戦し、GT1クラス(現在のGT500クラス)のシリーズチャンピオンとなった
ルマン24時間レースで1998年には星野一義、鈴木亜久里と組んで日本人チーム初の表彰台となる3位入賞を果たしている

 

片山右京

1983年にFJ1600筑波シリーズでデビューしこの年、翌年とチャンピオンとなる
1985年には全日本F3選手権にステップアップ。
レース中のクラッシュで瀕死の重傷を負い、日本へ「片山右京 死亡」の誤報が流れたこともあった。
その恐いもの知らずの走りから「神風右京」と呼ばれるようになった。
1988年から、日本のトップカテゴリーである全日本F3000選手権に出場。
1992年、ラルースチームから日本人3人目のF1レギュラードライバーとして参戦
1994年ティレル022で表彰台を争う活躍をしドイツGPでは予選で当時日本人最高位となる5位を獲得、スタートで2位にジャンプアップし、マシントラブルでリタイアするまで3位をキープしていた。
1998年からはトヨタよりル・マン24時間耐久レースにワークス参戦し、特にトヨタTS020 GT-ONEを駆った1999年の同レースは、優勝車BMW V12 LMRを終盤にファステストラップの連続で追い詰め、結局タイヤバーストで惜しくも2位となる。
現在スーパーGT300クラスGOODSMILERACINGの監督。

 

北野元

高橋国光・黒澤元治と共に日産自動車追浜ワークスの三羽ガラスと呼ばれた。
1959年第2回全日本クラブマンレースに出場し優勝する。
1964年5月、鈴鹿サーキットで行われた4輪レースの第2回日本グランプリにホンダもS600で出場することになり4輪デビュー。
1965年高橋国光とともに日産の追浜ワークスに移籍。
1968年の「'68日本グランプリ」において日産・R381で念願の総合優勝
1973年中盤からは富士グランチャンピオンレース(通称・富士GC)や全日本F2000(後の全日本F2)に進出。チーム体制やマシンのポテンシャルの問題から苦戦を強いられることが多かった。
1987年の全日本ツーリングカー選手権(いわゆるグループA)に、レイトンハウスのスカイラインRSターボで出場(コンビを組んだのは影山正彦)。
1988年に日産ワークスの後輩である星野一義主宰のホシノ・レーシングからレースに参戦。この年に引退している。

 

久保田洋史

1970年5月の「全日本鈴鹿1000キロレース」では、70年当時のGT-Rプライベーターの雄、箕輪眞治と組み、総合2位、クラス優勝を果たした。
1972年10月のレースを最後にワークスGT-Rが撤退した後もGT-Rでレースに出場し続け、1973年7月の「全日本富士1000Kmレース」では正谷栄邦と組んで5位入賞を獲得している(クラス優勝)
1973年「富士GCシリーズ富士マスターズ250㌔レース」では、サニーエクセレントを駆り、トヨタワークスが誇るテクニシャン蟹江光正及び久木留博之のセリカ1600GTを撃破しクラス優勝を果たした。

 

鈴木亜久里

1972年にカートレースデビュー。
1979年から当時の最年少デビュー(18歳)で全日本F3選手権に参戦。
1984年に日産のF3エンジン開発を任され、1985年、ワークス活動を再開した日産のワークスドライバーに抜擢され、全日本ツーリングカー選手権(グループA)にニスモからスカイラインRSターボで参戦、また全日本耐久選手権(グループC)にも柳田とのコンビでローラ・T810/日産で参戦することになった。
1987年に入ると、新装なった全日本F3000選手権に参戦。
1987年にはシリーズ2位、翌1988年にはシリーズチャンピオンを獲得した。
1988年10月に行われた日本GPに、中耳炎により急遽欠場となったヤニック・ダルマスの代役として、ラルースチームからスポット参戦という思わぬ形でF1デビューを飾ることとなった。
1989年には満を持してザクスピード・ヤマハでF1にフル参戦を開始。しかし全戦予備予選落ち。
1990年ラルースチームに移籍。日本GPでは上位勢がクラッシュなどで離脱する波乱のレースを、一時はファステストラップを記録して生き残り、ついに3位初表彰台を獲得した。
1992年ホンダV10をベースとする無限エンジンを積んだフットワークのマシンに期待が集まったが、最高位はスペインGPの7位。
1993年はベルギーGPでは当時の日本人予選最高位タイの6番手を獲得する。
1995年リジェのシートを得るが全戦参戦といはならず、引退レースのはずだった日本GPでクラッシュし病院に搬送される。
1996年にスーパーアグリカンパニーを設立。自らはドライバーとして全日本GT選手権やル・マン24時間レースに参戦し、1998年のル・マンでは総合3位に入賞。
1997年のシーズンオフにはオートバックスと提携して「ARTA(AUTOBACS Racing Team AGURI)」プロジェクトを発足。
2006年スーパーアグリF1を立ち上げF1に参戦。
2007年は前半戦に佐藤琢磨が2度の入賞を果たす躍進を遂げた。
2008年資金繰りが悪化しスペインGP後撤退した。
現在はスーパーGT500クラス ARTAの監督。

 

鈴木利夫

1975年・1976年に全日本カート選手権シリーズチャンピオンとなり、1979年には日本F3チャレンジカップ(現・全日本F3選手権)の初代チャンピオンを獲得。
1992年、デイトナ24時間レースでは、林義正と水野和敏が率いる日産自動車ワークスにて、星野一義・長谷見昌弘と共に日本人ドライバーによる日本車初優勝を成し遂げた。
また1995年には、デビューイヤーながら3勝を挙げた高木虎之介を抑え全日本F3000選手権でチャンピオンを獲得した。
1993年には、F-1終盤2戦の日本GPとオーストラリアGPにスポット参戦

 

関谷正徳

1976年は富士GC併催のスーパーツーリング選手権でシリーズ2位となり、翌1977年にはチャンピオンを獲得した。
1983年にはトムスと契約し、1984年には全日本耐久選手権に参戦した。
全日本F3000選手権や全日本ツーリングカー選手権、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)などで活躍した。
1992年のル・マン24時間レースでトヨタ・TS010をドライブし、総合2位の成績を挙げた。
1995年のル・マン24時間レースでは、マクラーレン F1 GTRで日本人初の総合優勝を果たした。
トムスチームの監督を務めるほか、フォーミュラトヨタ・レーシングスクール(FTRS)の校長。

 

津々見 友彦

1964年、オーディションを受けて日産ワークスドライバーの一員に選ばれる。
第2回日本グランプリT-Ⅳクラスで日産・ブルーバード1200に乗り4位になる。
1966年、日産を離れトヨタワークスに移籍。トヨタ・2000GTプロトタイプによる速度記録挑戦に参加し、レースにも出場。
1969年、トヨタワークスを離れ、フリー(プライベーター)に転ずる。同年途中でいすゞワークスと契約し、同年10月の日本グランプリにいすゞ・R7(シボレーの5,000ccエンジンを積んだプロトタイプレーシングカー)で出場し15位。
1970年、いすゞワークスとの契約終了後に完全なプライベーターになり、富士グランチャンピオンレースやF2000(後のF2)などに出場。

 

中嶋 悟

1977年にはヒーローズレーシングより全日本F2000/鈴鹿F2000とFJ1300に参戦。特にFJ1300ではシリーズ全7戦でポールポジション、全周回トップという圧倒的な強さでシリーズチャンピオンを獲得する。
1978年には全日本F2に参戦しつつ、イギリスF3にスポット参戦。鈴鹿サーキット限定で争われる鈴鹿F2選手権でチャンピオンを獲得した。
1979年には富士GCシリーズでチャンピオンを獲得した。
1981年1982年には全日本F2選手権・鈴鹿F2選手権でシリーズチャンピオンを獲得。
1984年から1986年まで全日本F2選手権で3連覇を達成する
1987年34歳にして日本人初のフルタイムF1ドライバーになる。
1989年最終戦のオーストラリアGPでは激しい雨が降る中、レースを沸かせる好走を見せた。後方23位からスタートし、1周目にスピンし最下位まで落ちたものの、スピンやクラッシュで自滅するマシンも多い中で序盤から次々順位を上げ、レース終盤には3位を走行するリカルド・パトレーゼのウィリアムズ・ルノーを追い回し初のファステストラップを記録。
1990年11月21日、キティレコーズから「悲しき水中翼船」で歌手デビュー。
現在はスーパーGT、スーパーフォーミュラに参戦するのナカジマレーシングの監督

 

星野 一義

1969年に日産自動車のワークスドライバーのテストを受け合格
東京・大森にあった日産の宣伝部の契約ドライバーとなり、主に当時「マイナーツーリング」と呼ばれた富士スピードウェイでのツーリングカーレースなどで活躍することになる。
1975年には全日本F2000選手権に参戦し、チャンピオンを獲得する。
1976年に富士スピードウェイで行われたF1世界選手権イン・ジャパンに、ヒーローズレーシングからスポット参戦。旧型のマシン(ティレル・007)を駆り大雨の中一時3位を走行する健闘を見せる
以後、全日本F2選手権や富士GCシリーズ、全日本ツーリングカー選手権(JTCおよびJTCC)においてチャンピオンの常連となり、レースファンから「日本一速い男」と呼ばれるようになる。
1980年に金子豊と共にホシノインパルを設立。
1987年にはホンダF1のテストドライバーになった他、スポンサー持込などの条件付きでベネトンなどのF1の有力チームのシートに誘われることも多かったというが、「プロのドライバーはお金を貰って走るもの。だからこちらからたとえ1円でも払ってまで乗りたくはなかった。」という考えで、F1のレギュラーシートを得ることはなかった。
1990年のル・マン24時間レースに日産・R90CPで出場し5位入賞、1998年のル・マン24時間レースには日産・R390で出場し、日本人ドライバートリオによる初の3位表彰台に輝いた。他にも1992年には林義正・水野和敏の指揮でデイトナ24時間レースに日産・R91CPで出場し、2位を9周引き離して完全優勝するなどの実績を挙げている。
現在はスーパーGT、スーパーフォーミュラに参戦するチームインパルの監督

 

和田 孝夫

1972年にレースデビュー。ツーリングカーを出発点に国内頂点カテゴリーまで到達し、1979年には全日本フォーミュラ・パシフィック選手権でシリーズチャンピオンを獲得している。
絶頂期には、全日本F3000選手権・富士グランチャンピオンレース(富士GC)・全日本ツーリングカー選手権(グループA時代)・全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)と全日本選手権のメインシリーズの全てにレギュラー出場していた。

 

 

レジェンドドライバーの出演イベント

富士スピードウェイ50周年記念イベント富士ワンダーフェスでは富士スピードウェイで数々の名勝負を繰り広げたレジェンドドライバーが参加し、歴史的なレーシングカーをドライブするんです。

ハッキリ言ってレース観戦歴の短い自分にとっては初めて見る車もたくさんでイベントがすごい楽しみです!

・ツーリングカーデモラン
長谷見昌弘氏 トミカ スカイライン ターボ
脇阪寿一   エッソウルトラフロースープラ
山本尚貴氏  カストロール・無限・アコード

・Nostalgic Group C Special Run
高橋国光   タイサンスターカード 962C 、
寺田陽次郎  マツダ787B
関谷正徳氏  トヨタ TS010 

 

・メインステージ トークショー(場所:A パドック) 

08:30 ~ 09:00 レジェンドトークステージ
~激戦の GC~
高橋国光氏、関谷正徳氏、寺田陽次郎氏、
土屋圭市氏、片山右京氏、鈴木利男氏、
松田次生選手

11:50 ~ 12:20 レジェンドトークステージ
~伝説の F1~
長谷見昌弘氏、星野一義氏、
ロニー・クインタレッリ選手、平手晃平選手

 

 

現役レーシングドライバー一覧

富士スピードウェイ50周年イベントFuji Wonderland Fesに参加するドライバーでレジェンドドライバーと記載されていないドライバーを紹介します。

うーん、脇坂寿一さんはともかく土屋圭市さんもこっちに入ってるぞw

大嶋 和也 
織戸 学 
金石 勝智 
立川 祐路
土屋 圭市
坪井 翔 
戸谷 千代三
中山 雄一
平手 晃平
松田 次生 
安田 裕信 
山下 健太 
山本 尚貴 
吉田 広樹 
従野 孝司
ロニー・クインタレッリ
脇阪 寿一

 

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本日も最後までお読みいただきありがとうございました。

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